
イエス様のことを愛される皆様へ、
「自分の愛情の動きを警戒しなさい。ほとんどの人は自分の好みで愛し、理性と神様の望みに従ってはいないのです。何かの善業の機会があれば、すみやかに広い心で行うように努めなさい。」聖フランシスコ・サレジオ
満開になった桜、忙しい小鳥たち、春がとっても身近に感じられます。復活祭の命を讃える祭日も、もう手が届くくらい間近くなりました。しかし、冬は完全には立ち去っていません。阿蘇の方ではまだ、雪の中で牛や馬が草を探し、飼い主たちが置いてやった餌を食べています。
今週の日曜日が聖週間の直前の最後の日曜日となっています。洗礼を受ける人たちのために欠かせない課題に踏み入ることになりました。それは私たちの命、復活であるイエス様のことを心で、体で、全ての思いで愛することです。信じるとは頭で決めることではなく、全身全霊で生きることです。イエス様ご自身がこの時の福音書の中で次のことを宣言してくださいました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と。命のこと、生きることは、私たちにとって神様からの最高の賜物です。また、人間にとって、生きることは神様との最も堅密な結びつきになっています。私たちは神様の息吹で生きているのではありませんか。だから、人間にとって命とは、もっとも大切な宝物であるはずです。しかし、私たちの弱い手に置かれたこの偉大な宝物は、簡単に失いやすいものであり、いつも十分に評価されていないようです。実は、人は大切なものに気づくこと、また宝物を手にしていることは、それを失うという悲しい経験によって知ることが多いのです.
福音書ヨハネ11・1-45
イエス様は今日の福音書の中で、命の尊さを教えてくださいます。ユダヤのベタニアという町には、イエス様の最も大切な友人であるマリア、マルタ、そしてラザロが住んでいました。ある日、突然ラザロが亡くなり、イエス様がそれを知らされた時、珍しく、大きな悲しみを感じられました。イエス様は人間であることによって、人間の苦しみや死に対して心を痛め、自分の生涯全体でその痛みを共有するようになりました。しかし、イエス様は神の子であり、神の大切な命でありながら、人間の苦しみや死によって、神様との出会いの場に変わることができました。イエス様は使徒パウロの言葉を通して、次のことを教えてくださいました。「私と一緒に苦しみ、死んだ者は私と一緒に生きることができ、永遠の命を受けることができます」(パウロのローマ人への手紙6・5)。イエス様は、亡くなった親友ラザロの死を悲しんで、御父である神様に祈り、ラザロの命を取り戻しました。そのしるし(奇跡)によって、イエス様は自分を信じる人々に、復活と命であることを示されました。
私たちが実際にイエス様が復活と命であることをどのように理解できるかは、生きた経験によって異なります。しかし、キリスト者にとって、信仰の核心は、各自の苦しみの中で、イエス様と一体化していることを信じ、そして神様が自分たちと同じ苦しみを共有してくださったことを理解することです。神様は自分の存在と命の尊さを通して、私たちに孤独ではなく、永遠に生きることができる希望と喜びを教えてくださいます。イエス様は、私たちの希望であり、喜びの道であり、目標です。私たちは神様の愛に包まれ、神様と同じ命を持ち、その中で永遠に生きることを知ることができます。モヨリ神父
*作者の絵 寺脇まなせ