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大分教区

聖ザべリオ宣教会の会員は、パウロが書いている通り、「そちらに行ったとき、私たちは袞弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」( Iコリント2章3・5節)事実、昭和25年3月8日、宮崎地区で福音宣教を開始することが決まった日、中国から追放された聖サべリオ宣教会の宣教師はキリストの福音以外は何も持っていませんでした。彼らはまったく無防備で、貧しくて弱い者でした。唯一の力は深く信じていたイ工ス様のお言葉と祈りの生活で、唯一の願いは、戦後の貧しさと苦しみを市民と共に忍びながら、教会に集まって来る人に福音による慰めと希望を伝えることでした。 その日からサべリオ会は、多くの人の支援を受けながら、大分教区の成長と充実のために熱心に福音の種をまき続けました。サレジオ会から受継いだ宮崎、田野と都城の教会の充実を図り、また、宮崎県内の主な町、高鍋、西都、小林、日南、飫肥、串間と南宮崎に新しい宣教拠点を作りました。教会の共同体を養成し、そして幼稚園を通して福音を地域社会に告げるのが彼らの共通の目標でした。

延岡教会

延岡に初めて教会が出来たのは1935年頃であった。1951年にはサレジオ会からサべリオ会に移管され、ピッチ神父とヤン神父が着任した。

高鍋教会

1951年、タルタリ神父が着任する1 9 5 3年、ピッチ神父が高鍋教会の主任司祭、リュウ神父が助任司祭として着任。二人は自転車やバスもすくは歩いて宣教活動をしていた。家庭を訪れてミサを捧げ、要理を教え、病人訪問を行っていた。

西都教会

ピッチ神父が高鍋教会から初めて西都に訪れた時に教会と教育施設を作ろうと思った。1956年6月24日、西都の富田医院の二階で初めてのミサが捧げられた。1959年には西都幼稚園が完成し、1964年4月、教会が落成した。ピッチ神父は33年間西都で主任司祭を続けたが1990年1月に帰天。幼稚園を通して多くの人を愛しまた愛された。 西都市民からも人気があり、 転任の話があっても市民から留任運動が起こるほどであった。 その葬儀は西都市からも特別に扱われ文化会館で市民葬となり葬儀ミサには多くの人が参列した。

日向教会

日向に教会がなかった頃、 信者達は日曜日になると 弁当を持って歩いて宮崎教会まで行っていた。 1952年、富局町草場に土地を買ってャン神父が富高教会をつくった。 はしめは民家を聖堂とし、 1957年、 現在の場所に幼稚園と教会が建てられ日向教会と名付けられた。

都城教会

1951年4月ベルリーニ神父が着任。 青年会の活動や,ハンセン病患者のための病院を慰問したりした。 受洗者も多く出た。

日南教会

 
   


1959年にディ・ナポリ神父によって建てられた。初め信者は6名ほどから始まった。日南教会のファチマの聖母像があるが、それは第一次世界大戦の時に中国で宣教していたジノ・ボットン神父が多くの少女や修道女達を守るために日本兵から殺された。 その司祭の妹が、 ディ・ナポリ神父が日本に来るときに 「私の兄の神父を殺した日本人を赦し、 カ ト リ ック的な愛のために、 また日本人のためにこの聖母像を贈り ますので、 ぜひ教会に置いてくたさい。 」 と願いを込めて贈られたものである。

そのために日南教会はファチマの聖母に捧げられている。

またディ ・ ナポ リ神父は1987年に隣接している串間市に串間教会を建てた

小林教会

1959年にベルリーニ神父によって建てられた。教会は被昇天の聖母に捧げられている。初めは幼稚園の教室の中に聖堂が設けられ園児のいない日曜日にミサか捧げられていた。現在の教会は1971年12月に献堂されている。

南宮崎教会

1962年8月26日、宮崎教会の福音宣教・司牧の発展のために宮崎市の城ヶ崎の医院を改造して聖堂とした。サンパーロ神父が主任司祭となり、 信者数は106名であった。1970年、 カルレッソ神父が主任の時に恒久にカトリック愛児園が設立され、教会も併設された。1974 年、コンタリー ・レンソウ神父の時に現在の教会が新築され落成した。