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A年 年間第12主日

A年 年間第12主日
モヨリ神父

この日の福音はマタイ福音書10章26節から33節である。弟子たちの派遣説教の文脈のなかにおかれている。
 ところで、私はマタイ福音書が実は苦手である。なぜなら、どうもこの福音書には倫理的なにおいが強すぎるからだ。それもかなり精神主義的な倫理主義である。あまりにも観念論的な傾向が強い。今日のこの箇所は一言でいえば、真理を伝えるのだから恐れずに堂々と行えというようなことであろう。そもそもこの箇所は終末がすぐに来るという切迫感を背景にしている。10章の23節で「はっきり言っておく。あなた方がイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と書かれている。だから、この箇所は終末が近づいているという特殊な状況における倫理的な行動規範である。これをそのまま文字通り取る必要はない。
 ここで考えなければならないのは、「恐れる」ということである。「恐れる」ことは自分に取ってつらいこと、あるいは苦しいことが起こるという予感から起こる感情であろう。それは肉体的な苦痛であっても、精神的な苦痛であっても同じことであろう。
 この「恐れる」ということが関係性を壊すことがあると言うことである。確かに肉体的な暴力を受けることが予想される局面で恐れるということはある。これは関係性を壊すというところまではいかないであろう。なぜなら、それは具体的に、眼前にあることであるからである。例えば、イタリアの警官は軽機関銃をもっているが、もし暴発したら、という恐れは常にある。それは具体的で、眼前にその機関銃を見ているからである。しかし、恐れをもったからといって、警官との関係性を必ずしも壊すことにはならない。
 問題は自分で恐れを拡大していくことである。例えば、外国語ができないと、外国人と話すことをためらう。それは、もし通じなかったら、恥ずかしい、あるいは聞いて分からなかったら恥ずかしいという感情が、恐れにまで高まる。その結果、外国人と見ると避けてしまったりすることもあるだろう。このような恐れは人間と人間とのあいだの関係性を壊すことになる。実際、外国の人が下手な日本語で話しかけてきても、あるいはこちらが日本語で話して分からなかったとしても、別にそれでその人を馬鹿にするとかいうことは普通一般にはないはずだ。もちろん、それをもってからかうという人もいるだろうが、それは品性の問題であって、言葉によるコミュニケーションの問題ではない。
 実際、イタリアで経験していることだが、通じないとか分からないということで相手に馬鹿にされるということはあまりないということである。むしろ、それを受け入れてくれるという側面がある。言葉ができないという恐れから相手に壁を作ってしまって、せっかく相手がコミュニケートしたいと待っているのをつぶしてしまうことがある。結局、恐れから、相手との関係性を断ち切っているのである。こういう種類の恐れは不幸をもたらす。
 このような種類の恐れから、解放されるためには、信頼が必要である。信頼のあるところに恐れはない。畏れはあっても、恐れはないのである。今日の福音でも、イエスが恐れないようにという根拠は真理を告げることとその前提となる神の全能性の問題である。信頼があるところには恐れはない。だから、宣教、すなわち人とのコミュニケートが可能になるのである。
 これは宣教する側だけでなく、宣教される側も同じことである。恐れは、福音、すなわちよい知らせを聞くチャンスを奪ってしまうことでもある。恐れを克服するのは、信頼とそしてあえて付け加えれば、少しの勇気である。よい知らせ、つまり福音を耳にするためには、恐れないことだ。モヨリ神父

*作者の絵 寺脇まなせ