
イエス様のことを愛される皆様へ、
「隣人の行いを出来るだけ高く評価するのは私たちの務めです。」 聖フランシスコ・サレジオ
セキレイが鳴きはじめ、つばめが去って行きます。「重陽の節句」、中国では奇数は陽の数とよばれ、縁起のよいものとされました。その中でも最大の九が二つ並ぶ九月九日は非常に縁起がよく、陽の数が重なることから「重陽の節句」となったのです。勿論キリスト信者にとって「縁起」のいいと言うことに偶然はないので、すべて神様の祝福やみ摂理の働きに当てはまっています。
旧暦の「重陽の節句」は「菊の節句」ともよばれます。江戸時代の頃までは菊の花を愛でながら、長寿を祈る宴などが盛大に催されています。この頃、私たちは「敬老の日」をも迎えることになります。しかし、年長者の方々の間に、何歳からこの祝いを当てはめるかが笑い話のようで微妙な問題となり、自分の長寿を感謝し祝うことが忘れられてしまう気がしないでもありません。この時に欠かせない思いは、年輩の方々に対しての感謝の気持ちだと思います。まず、彼等のたゆまぬ努力と労働によって、私たちの世界、人生、環境までもが楽になって綺麗になりました。次にお年寄りからいくつもの教えや知恵を授かる事ができ、それを受け継ぎながら信仰の尊さまでも覚えることができました。このように感謝の気持ちを持ちながら、先輩の方々と一緒に神様に向かい、この人生のため、またそれに伴った恵みにも感謝を捧げるべきだと思います。先輩方が一生懸命守った信仰は私にとって大きな贈り物になり、新たな義務になります。
マタイによる福音書 18・21-35
キリスト信者にとって赦すことは欠かせない心の態度です。隣人を赦すことによって自分の罪も神様から赦されます。主の祈りの中でも自分の方から人を赦し、自分も神様に赦されるように祈っています。さて、当福音書を通して、イエス様が赦しについてペトロに対する返事で、そして感動的なたとえ話を通しても簡単に教えを伝えてくださいます。イエス様が語られたたとえ話の中に登場する僕がいて、主人に対して莫大な借金をもっていました。自分の家族の者たちを奴隷として全て売っても、自分の持ち物を全て売っても、持っている借金に対して半分以下も納めることが出来ませんでした。けれども莫大な借金を持った僕は主人の足もとにひれふして、借金を帳消しにしてもらえるように一生懸命に願いました。その願いの仕方は長年、教会のミサの典礼の中に「kirie eleison」という言葉で表現されていました。「kirie eleison」(キリエ エレイソン)ギリシャ語で、心のこもった深い願いを示し、大きな愛で包んでくださいと言う願いの意味をも含んでいます。その願いを聞き入れた主人は、僕の借金を全て帳消しにして赦しました。さてイエス様に望まれた共同体も、お互いの赦しの元に作られています。その赦しがなければ、イエス様の共同体も消えてしまいます。そして私たちがいつか、人に対する赦しや寛大な心によって、同じように神様に裁かれます。神様の大きな赦しを体験した人だけが赦すことが出来ます。赦す人はまず、自分の負った傷を治してから、赦しを与えることが出来ます。けれどどうしても赦せなかったことが赦せるようになるには、長い歩みが必要です。その時、祈りの中で神様の支えは欠かせない力になります。モヨリ神父
*作者の絵 寺脇まなせ