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A年 年間第11主日

A年 年間第11主日
モヨリ神父

この日の福音はマタイ福音書9章36節から10章8節の、12使徒の選定とその権能に関しての箇所である。

イエスがいわゆる山上の垂訓をした後、さまざまな活動をしているが、イエス一人ではその活動に限界があるので、弟子たちに「汚れた霊に対する権能」を与え、そして弟子たちを派遣するための指示を行う箇所である。
 マタイの面白いところは、12使徒が「汚れた霊に対する権能」を与えられていることである。つまり、マルコの場合だと、イエスが12使徒を選ぶときには、「彼らを自分の側に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(マルコ3、14.15)。マルコの場合、使徒はまずイエスのそばにおり、宣教をし、悪霊を追い出す権能を持っているものである。 また、マタイとマルコでは文脈も違う。マルコでは、人々の不信仰に驚いたイエスが、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして使わし、その際、汚れた霊に対する権能を授けている(マルコ6、6.7)。しかし、マタイでは群衆が弱り果てているのを見て、働き手を増やすために12人を選んでいる(マタイ9,36-10,1)。
 つまり,マルコとマタイとでは方向性がまったく逆である。マルコは人々の不信仰に対する宣教であるが,マタイではこう言ってよければ信徒に対する司牧である。だから,イエスはマタイでは異邦人のところではなく,「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10、6)と言うのである。マタイの描くイエスのまなざしは信徒に向いている。あるいは信徒の集まりである教会に向いていると言ってよいであろう。
 このマタイの文脈から言えば,教会は「汚れた霊」を持つ人々の集まりとも言えるかもしれない。現代的に言えば,弱さを持った人々の集まりであろう。教会は弱い人々の集まりなのである。これは別に否定的なものではない。そもそも人間とは弱いものなのである。人間の弱さを原罪という風に言ってもよい。そんなことはないという人もいるかもしれないが,しかし,そうだとしても,相変わらず,この世界は完全ではないではないか。権力,支配、富などに人間は弱いのではないか。相変わらず,この世界は争いに満ちているではないか。そもそも人間は争いがよくないと分かっているはずである。それにもかかわらずなぜ争うのか。
 マルクスとエンゲルスは人間の歴史を「階級闘争の歴史」と言ったが,これもある意味で言えば,人間の持つ原罪性の一表現なのかもしれない。
 所詮,人間は弱いのである。それは教会に集う人間でもそうなのである。だから,教会に集まる人間は自分の弱さを自覚しているはずである。人間の持つ原罪性を認識しているはずである。本来,そうでなければならない。あえて言えば,教会にいるからといって救われるとは簡単には言えないのである。いや,むしろ教会における救いとは人間の弱さを深く知るところから始まるのかもしれない。
 イエスが言う「天の国」は10章7節と8節の関係から言って,「病人を癒し,死者を生き返らせ,重い皮膚病を患っている人を清くし,悪霊を追い払う」こと,つまり,弱さを克服する状態なのである。だから,救いは人間の弱さを知るところから始まるのである。
 私たちは皆弱いのである。私たちはいわゆる原罪を持っているのである。そのようなものが教会に集まるのである。だから,教会は天の国,あるいは神の国を先取りしているとも言えるのである。そこから救いが始まるのだから。
 弱さを知ることは,救いの始まりである。しかし,それは弱さにとらわれることではない。弱さを原罪と考えるなら,弱さを知る人間は自らの原罪性を知っていることでもある。原罪を知らない人間はむしろ不幸であろう。自らの弱さを知らない人間は不幸であろう。そして,また弱さにとらわれる人間も不幸である。しかし、教会は弱さを知らしめるところなのかもしれない。
 弱さを持つ人間はどうしても何かを行うときに臆病になってしまう。それはまさに弱さにとらわれていることなのである。例えば,「聞くは一時の恥,聞かぬは一生の恥」という言い方がある。人に尋ねるとき,こんなことも知らないのかと相手に思われてしまうとか,あるいは自分に取ってつらいことを教えられてしまうからと逃げてしまうこともある。でも,聞かなければ分からない。私たちが神に祈るということは神に問うことである。神に聞いているのである。問うことなしに,尋ねることなしに,よい答えもない。聞かないということは,問わないということはよい知らせを耳にする機会を自分の手で奪っていることでもある。
 弱さに拘泥するとは神に問わない人間,弱さを知るとは神に祈る人間である。祈ることは弱さを知ることである。だから,そこに無償の救いがやってくるのである。モヨリ神父

*作者の絵 寺脇まなせ