A年年間第13主日
今日の福音はマタイ福音書10章37節から42節である。この箇所は宣教に遣わす弟子たちへの指示であり、また終末意識に基づいている。だから、これを倫理的に解釈すると非常に厳格な、厳しいものになる。だからこれを弟子たちへの勧めの言葉と考えれば、10章の40節が重要になる。つまり、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」という箇所が今日の福音の中心的なメッセージになる。
こういう宣教のメッセージは弟子たちだけのものではない。キリスト者すべてに対して向けられているのである。
そして、今日の福音の後の文脈は何かというと、洗礼者ヨハネの問いに発するイエスとは誰であるかという問題である。そうすると、宣教のメッセージはイエスとは誰かという本質的な問いと関わるものである。すなわち、宣教は優れてキリスト論的な問題である。また、この意味で倫理的な問題ではない。マタイの場合はどうしても倫理的傾向が強く、そしてまたそれは終末意識を背景にしたものであるので、非常に厳格化されている。しかし、問題はそこにあるのではない。問題は「イエスとは誰」ということにある。宣教は「イエスとは誰か」を問うことであり、またそこに根ざすものである。
すべてのキリスト者は宣教に向けられている。それゆえ、この「イエスとは誰か」を問わなければならない。単に倫理的な問題ではない。問う限りにおいてそれは理性的な作業である。それは知的な反省を含むものである。キリスト教のメッセージを伝えること、そしてキリストのメッセージを生きることは、すべてこの「イエスとは誰か」という問いに関わる。この問いにキリスト者は真摯に答えなければならないのである。 モヨリ神父
*作者の絵 寺脇まなせ